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ここには、支援センター便り『ゆりかご』(季刊)から、
ゆりかご責任者宮澤陽子の巻頭言を抜粋して載せています。
子どもたちや親御さんへのあたたかいメッセージが沢山詰まっているこのページをどうぞよろしく!
[バックナンバーは下へスクロールして下さいネ!]
2008.8.1.発行 No.19より
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親だって、多くの親が我が子に自分を否定するように育ってほしいなんて思っていないのに、何故難しいんでしょう。こんなことがすぐわかって、すぐにできるようになるなら世の中変わっているかもしれません。以前、「前に進めと言われて進もうとすると進めない。ふとうしろを見るとその人にスカートの裾を踏まれていた」というような内容のことをおっしゃた政治家の方がいました。覚えているでしょうか。世間にはありがちなことです。でも私にも心当たりがあります。「前向きに」とか「積極的に」とか、「失敗を恐れず」なんて格好のいいことを言いつつ、いざ子どもが動こうとしたり、考え始めた時に「よく考えたの」「それは無理なんじゃないか」「こっちの方が得なんじゃない」と引止めにかかる。子どもにしたら「いったいどっちなんだ」という感じですよね。こんなこともあります。子どもができたことを、またはうまくいかなかったことを「お母さんもできた」「お母さんはできた」なんて張り合っていたり、トホホ・・・です。親が子どもの人生に入り込んでああしろ、こうしろと采配をふるうのではなく一歩下がって応援すること、それができたらどんなに子どもは嬉しいでしょう。子どもは(大人もだなぁ)「そうそう、それでOK」「大丈夫、もう一回やってごらん」そういうまなざしを待っているのですよね。私たちの心の中には自分の今の現実を冷静に見ている人と自分にダメ出しをする人と自分にOKサインを送ってくれる人がいるような気がします。バランスが大事なのでしょうね。でも各々癖というか習い性があって、ダメ出しをする人が独裁者のように強いタイプもあります。またそういう時期もあります。独裁者はどんな姿をしていますか、誰かに似てるでしょうか。口調はどうでしょう。その人の言うことは本当に絶対正しいのでしょうか。ダメ出し人間が強ければ数で勝負です。応援してくれる人を勝手に増やしましょう。私は時々、ハチマキをして、旗を持って私を応援してくれる応援団を思い描きます。顔のわかる人もいればわからない人もいます。そんなことでもちょっと安心できます。きっと人それぞれ応援団のつくり方が違うとは思いますが。 子どもたちには、その子の中にたくさんの応援の言葉を残してあげたいと切に願います。小さい頃だったら「わかった。そうだよね」「〜したかったんだ」「〜って思ったんだね」「もう1回やってみようか」「大丈夫。見てるよ」「がんばったね」etc. 応援団は誰でもなれるんです。親だけがなるものではなく(もちろん親がなってくれることが子どもが一番嬉しいことですよ)大人がみんななれればいいのです。そうしたら子どもたちは極限で踏んばれる、自分を守り、救える人に、そして他の人の痛みがわかる人になれると思うんですよね。子どもだけ応援してもらえてずるい、私のことも応援して!という気持ちももちろんOKです。 (おまけのひとり言...子どもには、正しい親ではなく弱さを抱える親と思ってもらえたらいいな。等身大の人間として理解し合えた方がお互い苦しくなさそうだから。「そんな親でも大丈夫」と自分を慰める日々です。) |
2008.5.1.発行 No.18より
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子育てをしていて、私は「子どもに許されながら親をやっているな」と思うことがよくあります。つい、親の方が子どもを許したり、待っていたり、「あげている」気になっているのですが、よくよく考えてみると子どもも親を許し、その成長を待っていてくれているんだとドキッとするのです。子どもが小さい時にはそのことに気づかなくても、大きくなるとこの子は、「私よりも私を知っているかも」とか「私のことをずーっとじっと見てきたんだなぁ」と、実感することがあります。(実感することを言われちゃうんです。という表現が正確かな)子どもの言動に、自分が裸にされたような恥ずかしさや、隠したい認めたくないという気持ちから、大人が逆上してしまうなんてことありますよね。子どもは鋭いから。 許す・許されるとか、我慢する・我慢してもらうとかは、誰かが片方の役割ばかりしているとバランスがとれません。また、誰かのせいで片方の役割ばかりやらされていると思うと、不満も溜まります。特に家族は、距離をとるのが難しいので苦しくなりますね。「お互い様」。親子間でもこんな風に思えたらいいですねぇ。「お互い様」には「許し合う」「感謝し合う」が入っているからホッとします。 小さい時から、許す・我慢する役割ばかりこなしていたら、どこかで誰かにその役割をとってもらいたくなりますよね。そうしないと身がもたないから。 親になると子どもにその役割をとらせたくなったりもします。もし、そうであったら自分を責めることなく、でもそういう自分を自覚してくださいね。親が自覚しているかしていないかに、子どもは敏感ですから。無自覚って相手を傷つけたり、相手に一方的に我慢を強いたりしそうなので。 今、我慢できなくなっていたり、がんばれなくなっている人はダメな人ではなく、以前どこかで、そのことを精一杯したことがある人なのだと思います。だから、今の自分を全てと思って、ダメ出しせずに、何のために何を我慢したり、がんばったり(がんばるって、体を使う行動だけでなく、心を使う・脳を使うことも入りますよ。念のため)してきたのかなぁと考えてみてください。そんな自分の業績を認めてあげることです。一人ではできなかったら、自分は誰かに手伝ってもらうに値する価値ある存在だと胸を張って、誰かに手伝ってもらいましょう。 |
2008.1.22.発行 No.17より
「泣くのは赤ちゃんの仕事だから」と言われても、泣き声を聞いていて平気とは中々なれないものです。下の子は、全然平気という方は 多いかもしれませんが、初めての子や出産時や出産後に何か心配なことがあった時、又は自分ひとりで育てているような気持ちでいる 時、そんな時の子どもの泣き声には敏感になってしまいますね、きっと。 子どもはよく泣きます。場所も時間も考えずに、羨ましくなることがあるくらいに。コミュニケーションの手段だったり、気持ちの発散だったり、 賢くなると真似という技を使って大人を動かしたり、いずれにしても子どもにとっては必要なことなのでしょうね。決して泣くことで親を追いつめ たり、責めたりしているわけではありません。そんなことわかっているのに、「早く泣き止ませなくては」と焦ったり、「なんで泣いているの」とこち らが泣きたくなったり、心配になったり、怒りを感じたり、また、「私がダメな母だから泣かせてしまった」と自分を責めたりと、いろいろな気持ちが 湧いてきたことはありませんか。 そんな時は、自分だけがそんな気持ちになって、他のお母さんは皆もっと『明るく』『上手に』『立派に』やれているなんて思っていたりするんです よね。(『するんですよね』って決めつけちゃっていますが、私がそうでしたし、同じ様なお母さん達の声を沢山きくものですから、つい・・・です。) あるお母さんがしてくれた話に心が動きました。子どもと二人でお店に行って、お菓子を買いました。その子は、袋にお菓子を入れて貰って、自 分で持って帰ることにこだわり中でした。でも、その日はお店のおじさんが、袋ではなく、お菓子にテープを貼ってくれちゃったのです。その子は泣 きました、多分思いっきり泣いたのでしょうね。お母さんはその子をひどく怒ったそうです。それは、その子が聞きわけがなかったからではなく、自 分がおじさんにお菓子を袋に入れて下さいと言えなかったダメなお母さんである自分を責め、泣かれていることが辛くなってしまったのだそうです。 子どもに黙って欲しくて感情をぶつけてしまったのです。同じ場面ではなくても、似たような場面、心の動きを経験したことのある方はいるのではない でしょうか。我が子のためなら自分を犠牲にしたり、誰よりも強くあったり、賢くあったり、理想的な母であらねばならないと思っていて、そうでない自 分が出てくると許せない、それが自分を責め、こどもを責めることにつながることもあれば、他者を責めることにつながったりするかもしれません。 このお母さんは、『こんなに小さい話で』と恐縮していましたが、とても大切なことがいっぱい詰まっているお話に思えました。誰でも、理想はありま す。そうなりたいと思うこともステキなことです。でもね、理想と現在(いま)を比べて足りないことを探してしまう必要はないのですよ。理想と現実の ギャップはあるにきまっています。そのギャップを抱えながら生きることに、時には自分を笑ったり、悲しんだり、悔しがったり、可愛く思ったり・・・・・ そんなことのできるお母さんを見て育つ子どもは、どんなに励まされることでしょう。いいお母さんより、こんな風に生きていっていいんだと伝えられる お母さんて。ケッコウかっこいいと思うんだけいどなぁ。 |
2007.10.20.発行 No.16より
| 感情の取り扱いは、本当に難しいものだと思います。自分の感情も他人の感情もです。私たちは生活している中で、ついついこれはいい、これ は悪い、これは白、これは黒等とどちらかに分けることをしがちじゃないでしょうか。どちらかに分けてしまうことで取り敢えず落ちつくというか、 どちらにも入れられないことが不安というか、そんなことってないですか?行動だけではなく、自分や他人の気持ちにもついそんなことをしてしまい がちです。これは、いい感情、これは悪い感情、『こんな事を思うなんて、私はなんて嫌な人間なんだろう』『こんな風に思ってはいけない』等々 成績つけてますよね、けっこう。『子どもが可愛くない』っていう感情は、どちらのポケットにいれますか。『×』の方ですか?そのことで、自分を 責めているお母さんが沢山います。赤の他人なら、自分と遠い存在の人なら、その人のことをどう思おうが自分のことを責める気持ちは薄いので はないですか。遠い人には、こうあるべきというしばりも少ないですし、もともと関心も薄いでしょうし、関係が近いほど感情の色も濃くなります。 (もし、遠い人なのに執着してしまうとしたら、何か理由はあるのかもしれませんが)肯定の感情の色も濃いし、否定の感情も濃いでしょう。自然な ことですよね。ましてや、出産前からずっと一心同体の生活をしてきた我が子ですから。子育ては自分の子ども時代の影響を受けます。複雑でグ チャグチャになったとしても当然なことです。 我が子が可愛いと思えないと葛藤するということは、紛れもなく、一番身近において上げていればこそで、無関心なら悩みませんものね。近くに 存在を感じれば感じるほど、自分と子どもが分けられなければ余裕もなくなり、見えるものも見えなくなります。今この時期、この条件で感じること が全てのような気がして、頭の中をグルグル巡ったりしてね。 人間ですから、可愛い可愛くないが同居していたり、可愛いと思う時と、可愛くないと思う時があったり、今はこうだけど、お互いが成長する、協 力してくれる人が現れる等、条件が変わる、一生の中では、変化をしていくなど、波があり、変化があり、成長があります。 子育てでは今のこの瞬間を切り取って、これはこうに違いない、ずっとこうなのだ、将来こうなる等と思いがちです。でも瞬間、瞬間で親も子も 変化し、積み重なっているのです。その人間冥利につきる『瞬間』が見える余裕をもち、子どもの距離をもつことが大切です。よその子なら『大丈 夫』と思えることが、我が子だと思えませんね。時には、自分とは離れたそんざいとして、興味深く眺め回してみてはいかがですか。我が子に対し て、目からウロコの経験が出来るかもしれませんよ。『親子』が苦しければ、同時代を生きる『同志』だっていいじゃありませんか。可愛いとか可愛 くないとか、いい子だとかそうじゃないとかって、どうでもよかったりして。お互い相手の成長を信じられるということが大事なのかなと思います。 因みに余談ですが、感情に成績をつけることって、とっても自分に対しても、相手に対しても失礼なことなので、けっこう根にもたれるかも。 |
「どんな子に育ってほしいですか?」という質問にどんな風に答えるのでしょう。 『思いやりのある子』『優しい子』『心身ともにたくましい子』『頭のいい子』etc.お父さんとお母さんでは、イメージが違うかもしれませんね。 また、以前と今でも違うかもしれません。私も、結婚前・出産の時、その後も子どもや私の年齢と共に微妙に変わっています。 こうして、親の子どもに対する願いは、人によって、時期によって、そして親が生きてきた歴史によって違ってくるのでしょうね。でも、全て 余計なものを取り払ってしまったら、「生きていて欲しい。」ここに行き着くのではないでしょうか。こんな風に思ってもらっていたら、子ども たちも安心して、大切な子ども時代を過ごせそうです。つまり『生きること』で全てOKをもらえる、自分の存在を認めてもらえるからです。 子ども達は、大人たちの(特に親の)、言葉ではなく、心を聴きとって育ちます。もっと小さい頃には、大人の表情・声・身体の緊張・空気 などから心を感じ取っているのでしょう。すごいことです。でもそれは、まだまだ力の弱い子ども達が生きていくのに必要なことなのだと思い ます。親が想像する以上に子どもは、親にその存在を認めてもらおうと頑張っています。それは、自分が子どもだった頃を思い出すと理解で きるのではないでしょうか。 いい子だったらOK、○○ができたらOK、親のOKをもらう為の『条件』が何なのかに子どもは敏感です。(先取りだってできちゃういますか ら)それを受け入れようとする子どももいれば、抵抗する子どももいますが、どちらもちゃんと感じ取っているからこそです。親が疲れている、忙 しい、余裕がない、そんなことも、みんなお見通しですよね。気を使ってくれるんです。とは言え、不安がいっぱいの時代にあって、子育てに対 しての視線も厳しい中、条件つけずにおおらかに子育てをしたいと思っても大変なことでしょう。いやでも色々な情報が入ってきますから。 ましてや、親の欲求なのに、自分の欲求と思い込んで努力し続けて大人になり、親になったとしたら、自分が生きていることにOKが出せない でいるとしたら、それは困難を極めることでしょう。 せめて、自分を縛っている親の『条件』を思い起こし、冒頭に書いたように、それは、その時々、人によって、時期によって変わるような決して 『絶対的なもの』ではなかったということを、また我が子につけた条件は、どんなことで、どうしてそれを必要とするのかを、考えてみてはいかが でしょうか。(『いい母』『いい子』像も各々の時代、各々の人間が作り出すもので、それだけ勝手なものだってことですよ。) どんな子とも仲良くできて、好き嫌いもなく、何でも食べて、積極的でリーダーシップがあって、協調性があって、勉強が出来て、優しくて、健康 で・・・なんて並べてみるとあり得なそうなこと結構望んでいたりするけれど、自分が望まれたら、ゲッソリしそうだし、何より逆でも立派に豊かに 生きていけますよね。きっとそういう子に育ってほしいというより、そういう子の親になりたいってことなんでしょうね。勿論私も含めて。 |
「どんな子に育ってほしいですか?」という質問にどんな風に答えるのでしょう。 『思いやりのある子』『優しい子』『心身ともにたくましい子』『頭のいい子』etc.お父さんとお母さんでは、イメージが違うかもしれませんね。 また、以前と今でも違うかもしれません。私も、結婚前・出産の時、その後も子どもや私の年齢と共に微妙に変わっています。 こうして、親の子どもに対する願いは、人によって、時期によって、そして親が生きてきた歴史によって違ってくるのでしょうね。でも、全て 余計なものを取り払ってしまったら、「生きていて欲しい。」ここに行き着くのではないでしょうか。こんな風に思ってもらっていたら、子ども たちも安心して、大切な子ども時代を過ごせそうです。つまり『生きること』で全てOKをもらえる、自分の存在を認めてもらえるからです。 子ども達は、大人たちの(特に親の)、言葉ではなく、心を聴きとって育ちます。もっと小さい頃には、大人の表情・声・身体の緊張・空気 などから心を感じ取っているのでしょう。すごいことです。でもそれは、まだまだ力の弱い子ども達が生きていくのに必要なことなのだと思い ます。親が想像する以上に子どもは、親にその存在を認めてもらおうと頑張っています。それは、自分が子どもだった頃を思い出すと理解で きるのではないでしょうか。 いい子だったらOK、○○ができたらOK、親のOKをもらう為の『条件』が何なのかに子どもは敏感です。(先取りだってできちゃういますか ら)それを受け入れようとする子どももいれば、抵抗する子どももいますが、どちらもちゃんと感じ取っているからこそです。親が疲れている、忙 しい、余裕がない、そんなことも、みんなお見通しですよね。気を使ってくれるんです。とは言え、不安がいっぱいの時代にあって、子育てに対 しての視線も厳しい中、条件つけずにおおらかに子育てをしたいと思っても大変なことでしょう。いやでも色々な情報が入ってきますから。 ましてや、親の欲求なのに、自分の欲求と思い込んで努力し続けて大人になり、親になったとしたら、自分が生きていることにOKが出せない でいるとしたら、それは困難を極めることでしょう。 せめて、自分を縛っている親の『条件』を思い起こし、冒頭に書いたように、それは、その時々、人によって、時期によって変わるような決して 『絶対的なもの』ではなかったということを、また我が子につけた条件は、どんなことで、どうしてそれを必要とするのかを、考えてみてはいかが でしょうか。(『いい母』『いい子』像も各々の時代、各々の人間が作り出すもので、それだけ勝手なものだってことですよ。) どんな子とも仲良くできて、好き嫌いもなく、何でも食べて、積極的でリーダーシップがあって、協調性があって、勉強が出来て、優しくて、健康 で・・・なんて並べてみるとあり得なそうなこと結構望んでいたりするけれど、自分が望まれたら、ゲッソリしそうだし、何より逆でも立派に豊かに 生きていけますよね。きっとそういう子に育ってほしいというより、そういう子の親になりたいってことなんでしょうね。勿論私も含めて。 |
2007.5.8.発行 No.14より
| 皆さんは「がんばれ!」と言う言葉を聞いて、どんな感じがしますか?『がんばれ』『がんばろう』の時代から、『頑張らなくても いいよ』とちらほら言われるようになりましたが、何かが変った実感はあるでしょうか? 私の実感は「やっぱり、昔も今もみんなが頑張り続けている」です。親も子も、男も女も。 もうこれ以上がんばらせないでと叫びたくなる時があるくらいに。 「よくやってますね」と声をかけられたら、「ホントによくやっている、こんなに頑張っている」と自分に素直に言って上げられますか? 「そんなこと言われても、ここも、ここも足りないのに」「こんな事がやれてないのに」「他の人はやっているけど、私は全然」なんて 気持ちが湧いてきちゃうのではないかしら。実際にそういうお母さん達の言葉をよく聞きます。 「よくやっているよ」と言っても、「ウ〜ン そうかなぁ」という感じなのです。子育てや家事はやれていて当たり前、やれていないと 指摘されてしまう、というところがありますよね。でも、『やれて当たり前』と思われていることをずっとし続けることは、なんて大変な ことなのでしょう。自分がそのことが大好きで、『自分のしたいこと』であれば、感じないかもしれません。だけど、『したいこと』は百人 百様、自分で決めていいこと、心に湧きあがってくることですから。 子育てや家事をし続けていくことに、ストレスを抱えないですむ人は、たまたまいるかも、というぐらいに思っていてもいいのではない でしょうか。しかも、おなじことの繰り返し、やらないと溜まっていくことを抱えつつ、思いどうりにならない生身の子どもの相手をし続ける のは、『しんどいのだぞ』。 まぁそうやって親も成長していくのでしょうが、成長は認めて貰ってこそ、喜びになるのです。これは、親も子も同じです。こんなに、心 の成熟を求められることなのだから、『やれて当たり前』ではなく、やれていることに成長を認め、『よくやっているね』と評価されてもいい のでしょうし、「みんなで手伝うよ」と言ってもらってもいいのだと思います。親がそうされることは、必ず、親が子どもに、そうして上げられ ることにつながるのではないでしょうか。 だから、お父さん、お母さんは、『自分が頑張っている』『もっと手伝ってくれ〜』と、世界の中心で叫んでもいいのです。 がんばっているかどうかは、その人自身が決めていいのですよ。よく周りの人が決めてますけど、それって大きなお世話。自分がムリ ムリ頑張って、人にもそれをさせたがる人もよくいますが、それは自分が無理を自覚するか、止めればいいことなんですよね、ホントは。 その様に周囲に惑わされたり、自分の中に他人と比較の心があって、苦しくなってしまうかもしれないけど、自分の感じることは誰からも あーだ こーだ言われなくていいこと、ましてやこんなことを感じる自分が弱いとかダメとか、自分の感情を否定しないことです。 行動することが、がんばっていると思われがちですが、頭や心をクルクルと動かしていることも頑張っていることです。行動する頃には、 疲れちゃっていることってありませんか。又は、諦めちゃっていることもありませんか。そのことも全部ひっくるめて、『よくやっているね』 と、自分自身に言ってあげてください。そして、『よくやっていますね』と言われたら、そのことも含めて言ってくれているんだなと、素直に 喜んじゃって下さいね。それが出来ると、自然に我が子のこともそういう視線で見られるようになることうけ合い。つまり、これが出来てあ たり前、できないのがおかしい、やれるだろう、と言われてしまう子どもの辛さもわかるし、言われないことの開放感も分かるという事です。 |
2007.2.1.発行 No.13より
| 暖冬とは言われていてもやっぱり冬は冬、ついつい"寒いですね"が口をついて出てしまいます。 前回の通信では『葛藤』を取り上げました。今回は『感情のコントロール』について触れてみますね。 数年前から『キレル子』や『普通の子の犯罪』が話題になり始めました。感情のコントロールと言うと、よく感情を抑えるか 我慢する力と思われるのですが、表現する力も仲間なのです。 子どもたちは、泣いたりわめいたり、時にはひっくり返ったり、身体全体で感情を表現しているので、抑えることを 『教えなくては』と使命感に燃えてしまいがち(因みに私の場合は、しばしばもっと原始的な「ウルサイ、兎に角ダマレ」 でしたけど)ですが、2歳くらいの乳幼児期まではまず表現し、それをわかってもらうことが大切みたいです。 『ギャ〜』『ワーン』『ヤダヤダ』『○○なの〜』『ダメー』『チガウ』等々。色々表現はしつつも小さい子どもたちは、その激 しいかたまりが、いったいどうして体の中に起こってくるのか、なんなのか、どうしたら収まるのか分からないでいます。 自分の中に起こる事が分からないのは、不安なことでしょう。それを"ママがいなくなるかと思って心配だったんだね。" "自分でやってみたかったのに、うまく出来ず、くやしかったんだね""お友だちにおもちゃを取られて悲しかったんだね。" と説明を受け、分かってもらえたら安心し、表現した甲斐があったと思えるのではないかしら。子どもが不快になること、 悲しむことの経験を否定しないで、経験できたことを大切な機会と捉えて、一緒にその感情を味わって上げればいいので す。要求は通らないこともあります。それも亦経験です。通したいと大泣きしても"それは出来ないよ"でいいのです。 その時に『こんなこと言ってオニのような母かしら』とか『泣かせていたらダメな親だと思われて恥ずかしいわ』とか頭の中 をよぎったりするかもしれませんが、それは大切な自分の感情として置いといて、子どもには大泣きのピークが過ぎたら、 "お母さんに叱られて悲しかったんだよね""やりたかったのに、悔しかったんだ"と、あなたの表現したかったことは、こう いうことで、私は一応わかってるわよと返して上げ、一段落ついたら、"じゃあ、お外行こう""ブーブで遊ぼうか"と切り替 えて上げたり、"泣きやめたね"と抱きしめてあげたりすることで、子どもは気持ちの立て直しを覚えていきます。 感情が湧いて→表現して→共感や理解をしてもらって→切り替えて→立て直しをする。 それが小さい子の感情のコントロールなのかなと思います。 それは『我慢する力』ではなく、『折り合いをつける力』なのではないでしょうか。小さい頃にそれをもらっておくと、大人に なった時、共感や理解をまず自分で自分にして上げられる様な気がします。それが自己肯定感にもつながるのかなぁ。 快の感情はやりやすいけど、不快の感情は難しいですね。本当はそっちの方が奥が深いから難しいのでしょうね。 幼児くらいになると、それまで言って貰ってきたことを口に出して、自分で自分に言い聞かせて、折り合いをつけることが 始まってきます。そして段々こういう気持ちだったんだよと大人や友達に伝えられるようになってきます。 『感情が湧く』と『感情表現』の間に『折り合い』が入ってきます。感情のコントロールは、決して孤独な修行ではなく、 人の力を借りながら、心の中にまず自分の存在をしっかりと焼きつけ、そして他の人をそこに加えていく崇高な作業の様な 気がします。もし、子どもの感情を拒否したくなったり、理解できないと感じたら、自分の感情でお試し下さい。 小さくても大きくても、快でも不快でもいいから、自分の湧いてきた感情に名前や理由をつけて、存在を認め共感表現し てみるのです。(ブツブツ言ったり、書くのもOK)。行為に我慢はあるけれど、感情に我慢は必要ないのではないかしら。 自分の中に『こんな感じなんだ』という実感がると、子どもの感情を受けるときに幅がでるかも。 |
2006.11.4.発行 No.12より
| 秋も深まり、何だか急に寒くなりましたね。風邪を引いてしまった方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。 最近好きになった言葉があります。それは『葛藤』という言葉です。この言葉が何だか人間の証しのように感じ られたり、生きることの苦しさであると同時に面白さを表してくれたり、自分や人の力を信じる為の励みにもなって くれたり、私の中では、けっこう愛おしい"ことば"となっていま。 子どもは日々葛藤しながら自分と折り合いのつけ方を、大人に手伝ってもらいつつ学び、成長しています。 葛藤があるからこそ、発達・成長があります。 結果が出ることも出ないこともあるでしょう。でも『実』になっているんですよね。白か黒かではなく、なんだか グチャグチャとしたグレーの存在を認め、自分の中にとどめておける、そんな懐の深い人間になってみたいもの だと目下の願望。私の場合それが苦しいから人に白黒を迫ってみたり、誰かや自分のせいにしてケリをつけたく なったり、それが常なものですから。トホホ・・・。 ああでもない、こうでもないとしながらも、いつの間にかどこかに行き着いたり、パッと目の前が開けたりというこ とがあるような気がします。子どもたちの心の中はああでもない、こうでもないの真っ最中。あどけない顔をしつつも 葛藤の連続です。葛藤というのは自分の中の色々な感情がせめぎあっている状態ですよね。そんな時、正義や 常識をふりかざして自分の感情にこれはいい感情、これはあってはいけない悪い感情という評価は不要。(それは まったくもって自分に失礼なことと思えます。)どんな感情に対しても平等に「そうか、そうか、そう思っているんだ」 「わかる、わかる、ムリもないよ」「それって本当は○○ってことなんだよね」等々と尊重してあげること、自分で自 分の中にある感情に点数をつけないこと、それが自己尊重感なのかなと思います。 これって、大人は意識すれば自力で出来るかもしれないけど、子どもは自分では出来ないので、大人が言葉や態 度で表現してあげることが必要です。これは子どものいうことを全てやってあげなければいけないということとは別 物。行為はしなくてもいいし、または子どもの行為を止めてもいいのです。感情を受けとめ、そんなことを思ってもい けないというメッセージを伝えないことです。(友だちなんてキライ。貸してかげたくない。あれがほしい。いっぱい持 っていたい。あの子はズルイetc.....こんな感情もOK。もちろん大人もね。) そんなことを言っても我慢が出来ない子になるのではないかと心配になりますか。そんな心配も"あり"です。 心配の底の方に大切な、なんらかの『気持ち』が眠っているのでしょうから。 次回は(多分)この続き、感情のコントロールについて触れてみたいです。 |
2006.8.11.発行 No.11より
| 今年の梅雨は長かったですねぇ。8月にしてやっと夏到来。でもなんとなくすぐ秋がやってきそうな気配ですね。 先日家のまわりの草取りをしました。保健センターの公園の草も同様、成長の早いこと。草花同様小さな子ども達の 成長も目覚しいものがあります。でも体が大きくなったり、コミュニケーションがとれるようになったり、自分のことが 出来るようになっていったり、そんな目に見える成長と比べて心が大きくなっていくことはわかりづらいかも。 だからこそ、こころの成長を待ち、認めてもらえたら嬉しいことでしょう。赤ちゃんが初めてお友達に興味を示し、顔に さわったり、髪の毛をひっぱったりした時、「あら大変、お友達にこんなことをするなんて。」と慌てて止めたり叱ったり するのと、「もうお友だちに関心が出てきたんだ、そうだよ、お友だちだよ。」と言う思いで止めるのとでは、子どもの 感じ方が違いますよね。多分相手の子どもが感じる空気も違うでしょう。 子どもは、興味のある物にストレートに手を出します。物を取るのも、物に興味があったり、執着が出てきたり、貸せ ないのも同様、心の成長です。『たくさん持っているから貸してあげなさい、年齢が大きいんだから貸してあげなさい』は 子どもの側からすると理不尽かも。それをするのは人から決められることではなく、本当は自分で決めたいこと。お友達 との関係を作れるようになるには、様々な力の育ち、準備、時間が必要なのだと思います。 形から入ると、砂で作ったプリンのようにすぐ崩れます。遠まわりでも本物の材料で、ゆっくり中から作り上げていかないと (お互いの気持ちを言葉にしてあげること、やりとりの仕方を教えてあげること、気持ちのを切り換える時間をあげること等。) 小さな子ども達は特に、言われたことが出来るようになるためには、何回も繰り返してもらうこと、いずれ出来るようになると 信じてもらうことが必要です。大人も言われたことが心に落ちて行動として出来るようになるのに時間がかかることがありま せんか。相手との関係や心の成長が関係している場合が大人にもあります。結果はすぐにはでないのです。 人間は命が尽きるまで成長することができるので、それは一生出ないということも言えるのかな。 そこがまぁ面白いところです。 話を戻します。お友だちとの関わりの中で、大人がすぐに結果を求めたくなって子どもに迫ってしまっていたら、それは子ども の側ではなく、大人の側に理由がありそうです。相手の親にどう思われるか心配、周囲の大人たちに躾が出来ない親だと思 われないかと不安、自分も親からいい子を求められてきて、叱るのがあたりまえ、夫や周囲の人間からのプレッシャー、etc... でもそんな気持ちもいけないのでも、恥ずかしいものでもなく、大切な気持ちです。 皆色々な感情、色々な葛藤の中で生きているのですから。 そんな自分の感情に気づいたら成長の一歩。こんな風に親は子どもの成長から気づかされ、人間としての成長を促されていく のでしょう。そんな感情を持つのことがいけないのではなく、大人が自分の側に理由があるのに気づくことなく、子どもに結果を 求めてばかりいることがやっかいなことなのです。 自分の様々な感情に気づき、受け入れることが出来る親なら、子どもの感情にも気づき受け入れられるようになると思うのです。 その時々の『結果』ではなく、『経過』としての心のせいちょうを見てもらえること、それは大人も子どもも嬉しいことではないかしら。 だって、お母さん達だって経過の真っ只中なんだから。 |
2006.5.2.発行 No.10より
春は、子ども達の成長を噛みしめる季節ですね。環境が変わり、不安な思いの方もいらっしゃるかもしれませ ん。子どもの発達は、よく矛盾を乗り越えて飛躍があると言われます。矛盾を乗り越える時には、一時後戻りを したように見えたり、不安を表現することもあります。一直線、右肩上がりにはいかないものです。この曲線が 成長の醍醐味。一度落ちたり、しばらくとまったり、成長や発達には、『溜め』が大事ということです。 『這えば立て、立てば歩めの親心』と言いますね。子どもに願いや期待を持つことは、自然な親心。その『親』 の隣に『自分自身(親自身)の力と子どもの力を信じる心』を置いておく、それが子どもの成長を見守るというこ となのかなと思います。信じるということは、溜めを大切にするということです。落ちたり、とまっているように見 えても、どこかにちゃんと溜まっていて、それがいっぱいになれば、また成長があると思えること、親が見たく ない子どもの姿(友達に手を出す、すぐ泣く、だだをこねる等)にも、目をそらさないで必要なことと認めていくこ と。そして、ここがポイント! 自分の力を信じる、つまり子どもだけでなく、大人自身も同じなんだろうということに気づくことです。 親が子どもの成長を願い、信じるという一方向ではなく、私は、子どももちゃんと親の成長を願い、信じてくれて いると思っています。だからこそ子どもは、親を励まし、一方で困らせ、試し、揺さぶり、思い通りになってくれな いのです。親の中にある認めたくない感情をもあぶり出してくれるのです。子どもの頃から赤ちゃんが好きで、 大きくなったらなりたいものが、『幼稚園の先生』だった私の中に、『子どもの泣き声にイライラし、放り投げたく なる私』という、見たくない自分がいることを、子どもはつきつけてくれました。口で言っていることと、お腹の中 で思っていることが、違うイヤな自分も見せられました。 節目節目で、困ったことをし、子どもは親の成長を促してくれます。しかもちゃんと『溜め』を認めてくれて、『這 えば立て』の親心を持っていないところが、子どもの偉大なところかも・・・。もちろん私達にも、そんな偉大な 子ども時代があったこともお忘れなく。 |
| 小さい頃に、基地ごっこをしたことありますか? 基地ごっこや缶けり、校庭で遊んだオニごっこ、 男の子も女の子も混ざり合って楽しく遊びまわっていた小学校時代を思い出します。そのことを思い 出したきっかけが悲しいことに、下校途中で命を絶たれた少女の事件でした。子どもたちが常に危 険にさらされ、今以上に遊べなくなる時代がきてしまったのだと心が痛くなったのです。空間、時間 仲間、子どもたちが育つ上でどれも必要なものです。申し訳ないことに大人たちが随分と沢山子ども たちから奪い取ってしまったものでもあります。遊びを作り出せる場所がなくなり、忙しい生活と共に 時間もなくなり、安心してケンカしたり、仲良くなったり、一緒にいいことも悪いことも経験する、そんな 仲間関係も希薄になりました。 子どもって天使でもあるけれど、うるさかったり、汚かったり、あぶなかったり、めんどうだったりする 存在です。成長と共にウソもつけるようになるし、反抗もし、ずるいことを考える知恵もバッチリつきます。 何事もきれいになってしまった世の中、きれいで合理的なことを目指す大人たちにとって、時には許し がたい存在でもしれません。でも、よ〜く考えると、私たち大人も子ども時代そういう存在であり、それを 許されて大きくなってきました。世の中、見かけが『きれい』になってしまい、子ども達にとっては、迷惑な 状況かもしれませんよね。 家の中をきれいに保ちたい大人と、何でもかんでも出して試してみたくなる子ども、言う通りにして欲し い大人と、自己を育てるために反抗したい子ども、今親の目の前で、誰とでも仲良くしてほしい大人と、 人が好きだったり、コミュニケーションとりたいが故にトラブルになってしまう子ども。ステレオタイプの子を望む 大人と、他の誰とも違う自分でいたい子ども。対比しすぎかもしれないけれど、その中に見かけにこだわる 大人と、自分を作り上げていく『いのち』としての子どもの姿が見えてきます。 大人の中にも子どもの中にも、等しくある『いのち』は、昨日よりも今日、今日よりも明日と、成長したがっ ています。子どもの『いのち』を考える時に、大人のいのちのこと(生きるということ)も考えてみたいものです。 子どもって、うるさい、汚い、あぶない、めんどう、それもひっくるめて『天使』なのだと思えます。 もし、うるさい、きたない、あぶない、めんどうな存在が悪い子だと小さい頃から思い込まされて育った大人の 方がいらしたら、それもひっくるめて人間、それもひっくるめて自分は『天使』だったと、どうぞ言い聞かせて上 げてください。 グチャグチャ、ゴチャゴチャと生きることが、捨てたもんじゃないと思えたら、自分の中にも、子どもの中にも 『間』を作り出せると思います。それこそが『人』『間』かなぁ。(空間・時間・仲間、こっちの『間』も子ども達に伝 えたい!と切に思います。) |
2005.11.1.発行 No,8より
| 子どもの心がわかりますか? 人の心は、難しいですよね。子どもも大人も、同じです。大人は子どもの気持ちを頭で理解しようとするけれど、 子どもは大人の気持ちを心で感じます。これがまた鋭いのです。大人の言っていることと思っていることが違って いたら、ちゃんと思っていることを読み取ります。大人同士で子どものことを話していると、遊んでいるように見える その子が全身で聞いている(感じている)のがわかると思います。お母さんが安心しておしゃべりしている相手に対 しては、子どもも安心ができます。緊張感や安心感は伝わるんですよね。 公園やひろばで、「またお友だちに手を出すんじゃないか」「またお友だちになにかされるんじゃないか」と緊張した り、「あの子のお母さんに悪く思われるんじゃないか」「ダメな親に見られるんじゃないか」と気にしていると、お母さん の張り詰めた気持ちを感じ、おかあさんの意識がどこかに行ってしまっている、自分の感情もお母さん自身の感情も 大切にされていないと感じることでしょう。 そんな時、子どもの気持ちはキュッと縮こまってしまっているようです。 (今の時代、大人の気持ちも縮こまってしまうことが多いのかもしれませんね。) 気持ちが縮こまってしまうということは、心がかた〜くなっているということ。かたくなな心は、相手を責めたり、自分を 責めたり、内側に向いて外から自分を守ることに必死になりがち。相手を受け入れることが難しくなります。自分が大 切にされないと(してあげないと)相手を大切にしたり、受け入れたりすることが出来ないのです。 子どもが他のお友だちの持っているものを欲しがるのは当たり前。他の子を意識し始めるから起こること。そして又 自分の持っているものを貸せないもの当たり前。どちらも自然な姿です。それを悪いこと、あってはいけないことの様に 「いけません」「貸してあげなさい」としてしまうことで子どもの心は、キュッと縮こまってしまうのではないかしら。 お友だちと仲良くしなければということばかりに目を向けると、子どもの心が見えなくなってしまいそう。例えば「貸して ほしくなっちゃったね。楽しそうだもんね。終わったら貸して貰おうね」「まだ使いたいんだね、もっと遊ぶまで待ってて貰 おうね」なんて言ってあげていいのですよ。 自分の感情がたっぷり大事にされた子は、貸したり、借りたり、一緒に遊んだり、そんなことが年齢と共に自然にできて きます。そうなった時、強制された、形だけの仲良しではない、時には自分達の感情もぶつけ合える『本物』の仲良しが 誕生するのです。 これって、大人にも言えることですけどネ! |